カリンのママになって!
「今宵のリナはカリンちゃんのものですわ」
「カリンちゃんの好きにしていいのですよ」
♡
雰囲気づくりは完璧。
これまで数々のお屋敷でそうしてきたように、リナは晩餐会の配膳をするがごとく慣れた手付きでおとなのムードをこしらえた。
質のいい調度品があつらえられたメイド長の私室は夜に抗うことなく薄暗く、シェード付きのランプの明かりがナイトガウン姿のリナを照らす。
ベッドに腰掛け、身体にぴったり沿うなめらかなシルク素材に包まれて、お気に入りのワインをひとくちふたくちと飲むリナは優美かつ余裕たっぷりで、この振る舞いは老若男女ヒトシリオン問わず誰も彼もを手玉に取ってきた過去と自信に裏打ちされている。
一方、リナ主催の深夜のお茶会にお呼ばれした、たったひとりのお客様であるカリンは小さいリボンがたっぷり結ばれたギンガムチェックのパジャマ用ワンピース(リナがカリンちゃんのために選びに選んだシャーリーテンプル!)に小さな身体をしまいこみ、紅茶が注がれたティーカップをちんまりと持つその姿は非常に可愛らしく、また非常に頼りない子ども子どもした姿であった。(ちなみに…リナにお茶を淹れてもらうのは危険なので、カリンが自分で淹れている)
ふたりがつまんでいるのは、「いつも頑張っているカリンちゃんのために、特別に」とリナが戸棚から出してきた、普段なら夜は控えているチョコレート。それも大切にしまっていたちょっとお高めのいいもの。
「エレンとライカンさんには秘密ですわ。カリンちゃん、内緒にできる?」
「は、はい…!」
こくこく頷くカリンに「いい子ですわね」と微笑み、リナは宝石のようなチョコが詰められた箱を差し出す。
迷うことなく箱の隅っこのチョコを手に取るカリンのその行動は、自分だけがリナさんのご相伴にあずかるのはライカンさんとエレンさんにちょっと悪い気がする、でもリナさんが秘密の共有相手に自分を選んでくれたのは嬉しい…という感情によるもので、リナとしては真ん中のダイヤを模した赤いチョコを取ってくれてもいいのに、カリンの控えめな性格がよく表れている。
リナもすぐにひとつ手に取り、口に運ぶ。そうしないと上司に遠慮したカリンがいつまで経ってもチョコを手に持ったままで口にしないのが明らかだからだ。リナがチョコを食べるのを確認して、カリンも小さな口の中にそれをそっと丁寧に押し込み、もむもむと舌と上あごで挟んで溶かす。
明日はお休みの日だから、いくら夜ふかしをしてもいい。
休日に差し掛かる深夜の時間帯、特別なチョコレートと温かい紅茶、豊満なワインの香り、なによりいつも優しいリナさんの少し違った雰囲気にカリンはすっかり飲み込まれていて、アルコールの一滴も入っていないのにまるで酔っているかのよう。椅子の背もたれにくったりと寄りかかってほわほわしている。日中の疲れもあるだろう、それもリナの狙い通りである。
カリンがひとつ食べ終わり、紅茶を飲んで一息つくのを待って、リナは、ここで冒頭のセリフ。
「今宵のリナはカリンちゃんのものですわ」
「カリンちゃんの好きにしていいのですよ」
甘美なキラーフレーズ!舌の上でとろけるチョコレートのよう!
その文面はとってもシンプルで、だからこそストレートに相手に届き、ぐっさりとその胸を刺す。
このシチュエーション、およそ上司と部下の間柄にはふさわしくないのだが、メイド長による新人メイドの教育なり、深夜の特別研修なり、いかようにも言い訳はできる。いや、ヴィクトリア家政というのはその怪しげな雰囲気と美男美女ぞろいの社員に反してまったく健全な組織であり、ご主人様のためにホロウに潜り武器を振るうことはあっても、夜のとばりにお邪魔するような「そういった依頼」は一切請け負っていない。
つまり言い訳というのはリナがリナ自身にする逃げ口上だ。百戦錬磨のリナはこのかわいいかわいいカリンちゃんをつまみ食いしたくて仕方ないのだ!
だから、好きにして…と口では言いつつ、実際にナイフとフォークを手に取るのはリナであり、お皿に乗るのはカリンである。
美しい毒蛇が自分の首筋を目掛けて鎌首をもたげているとも知らず、カリンは見つめていた紅茶の水面から視線を上げる。
「ほ、ほんとうに…ほんとうにカリンの好きにしていいのですか……?」
「ええ、もちろん」
(あら、カリンちゃんったら、案外お顔によらないのですね)
カリンのことだから、てっきり、きょとんとして「どういう意味ですか…?」と聞いてくるかと思いきや(その場合の二手三手先を当然リナは用意している)、リナの予想に反してカリンの震える声はか細く、声色には若干の戸惑いと多大な期待が満ち満ちている。
この反応をするということは、リナを自分のものにできたらしてみたいことを常々抱えていたということだ。何も知らないかわいい顔をしておきながら、これで意外と話が通じる子ではないか。
それでも、リナの意図は通じても経験は一度もないであろう幼いカリンだから、いったいどんなに情熱的な欲求をつたない言葉や未熟な身体で伝えてくれるのだろう…とリナは今にも罠にかかりそうな獲物を見る目でカリンを見据える。
リナに見つめられたカリンは薄暗い部屋でもわかってしまうくらいにほほを染め、リナの視線から逃れようとうつむく。幼さをことさら強調する高い位置で結い上げたツインテールが揺れ、椅子の上で縮こまったカリンは胸の前で人差し指同士を絡ませ、身をよじり、もじもじもじもじ……
ひとしきりくなくなして、決意できたカリンはとうとう顔を上げる。あごを引き気味に恐る恐るリナを見つめるので、必然的に上目づかいになってしまう。この狡猾な魔女のようなリナを相手に自然とそうしてしまえるカリンは言わば甘い蜜がたっぷり詰まった毒りんごだ。抗えない魅力を放つこの小さな果実が差し出されるのは白雪姫ではなく…魔女そのひとである。
勇気を振り絞って、ついにカリンは口にした。
「じゃあ、あの……」
「…ま、まま………」
…呼吸が、止まるかと!
カリンのくちびるから紡がれた、たった二音にリナはたちまち固まってしまった。
「……!」
だって、カリンがそう呼んでくれるのをリナは望んでいたからだ。もうずっと、カリンを引き取ったその時から。
ぺろりと食べてしまうためにここまで場を整えてておきながらおかしいと思われるかもしれないけれど…カリンが家政に加わってからこちら、仕事場でもプライベートでも自分を慕ってくれるこの小さな女の子のことを、娘のようだ、娘にしてしまいたいとリナが思ったことは一度や二度ではない。
けれども、腹を痛めて産んだわけでも、育児をしたわけでもないのに、たまたま今上司としてお世話をしているというだけで自分を母だと思うのは、実際にカリンをここまで育てた実の母の立場を掠め取っているのでは…というためらいがあって、できなかった。
しかし、それももうやめだ。そんな常識的なためらい、たった今必要なくなってしまった。だって他でもないカリンがリナに望んでいるのだから!
カリンの「まま」の破壊力ときたらすさまじく、えっちなわるいおねえさん♡を意気揚々とやろうとしていたリナを一瞬で、たった一言で絶対的な母に書き換えてしまった。
余裕の笑みが表情から消えたリナにカリンは縮こまる。今にも「ごめんなさい…」と謝ってすべてを無かったことにしてしまいそうなカリンだけれど、そうはリナがさせるまい。
「……カリンちゃんがそう望んでくださるなら」
「いらっしゃい」
カリンに向けて両手を広げ、彼女を呼び寄せる。呼ばれたカリンは実に不安げな表情で、テーブルセットの椅子から降りて、頼りない足取りでリナが腰掛けるベッドにそろそろとやってきた。
リナの隣に、ほんの少し距離を置いてちんまりと座る。今すぐすがりついて甘えたいのに、本当にそうしてもいいのか不安なのだ。
「さあ、ぎゅってしましょうね」
まだまだ遠慮がちなカリンの様子に、リナは広げた両手をカリンの背と胸の前に回して、ぎゅうっと抱き寄せる。カリンが苦しくならないよう、けれども愛情は一滴の不足なく伝わるよう、ぎりぎりまで見極められた力加減だ。
全身かちこちに固まっているカリンの頭や腕をゆっくりと撫で、瞳にかかる前髪を指先で梳いてやり、くちびるにかかる髪を丁寧につまんで退けてやる。幼い香りをまとうカリンの頭にほほを寄せて、背中をなでなでしてあげていると、リナの体温に包まれたカリンは氷が少しずつとけるかのようにくったりと寄りかかってきた。
ふくふくのほっぺたをリナの胸にぴったりくっつけて、収まりのいい位置に落ち着いたカリンはリナの腕の中から彼女を見上げる。
「リナさん…」
緊張したせいで、やっぱり良くないかもと思ってしまったのだろうか?カリンはもとの呼び方に戻ってしまった。
いいや、リナのお胸に顔をくっつけてリナを見つめるカリンの瞳は甘えと期待にゆらめいていて、彼女が秘める望みがリナにはよぉくわかる。これはいわゆる「誘い受け」というやつだ。一度リナに許されたそれを、今度はリナからおねだりさせたいとは、こう見えてカリンちゃんもお楽しみというものがよくわかっている…
「あら、もう呼んでくださらないの…?」
かわいいカリンの望む通りにリナはわかりやすく拗ねてみせて、人差し指でカリンの鼻先をちょんとする。
すらりとした指はいつもなら特注のドレスグローブに覆われていて、わずかな動きひとつで二体の暴君を操るのだけれど…カリンの小さなお鼻を、桜貝のような爪が収まった指先でこしょこしょする今は見る影もない。
リナが自分の願望を汲み取り、バレバレのそれを指摘せず、惜しげもなく乗ってくれたことにカリンは大いに喜び、盛大に照れ、「えへへぇ…」とゆるみきった笑い声を漏らした。
「えへ…ママ……」
「ええ、あなたのママですわ…」
リナのおねだりにカリンが応え、さらにカリンの甘えにリナが応える。
結晶化した砂糖のように甘ったるい呼びかけのやりとりに、リナに応えてもらえたことに、カリンは、きゃあ、んふふ、とさらに照れ笑いしてリナの胸に顔を埋めて隠した。
腕に抱かれ、いい匂いに包まれたまま、やがてゆっくりと呼吸が深くなり、今にも寝落ちしそうになっているカリンに囁く。
「カリンちゃん、寝る前に歯を磨きましょうね…」
「んん…やだ、やだぁ…ママ……」
リナとしてもこのまま寝かせてあげたいのだけれど、それはできない。だって今のリナは物わかりのいい上司ではなく母親なのだから。身をよじって弱々しく抵抗するカリンに寄り添うようにして立ち上がらせ、洗面台まで連れていき、心を鬼にしてカリンの歯を磨く。
歯ブラシをそっと口内に差し込んでくるリナにいやいやするカリンのくちびるの端から唾液がぱたぱたとこぼれてしまうけれど、リナはそれを淫靡に思うことも、よろしくない欲を掻き立てられることももうなかった。
「ふあぁ、やぁあん……」
すっかり「リナの幼い娘」になってしまっている駄々っ子のカリンはふにゃふにゃと泣き、ぐずって、リナを大いに困らせてくれた。ついさっきチョコを隅から取った子とは思えない振る舞いだ。
虫歯をつくらせてはカリンがかわいそうというリナの親心であり、実際に虫歯になってしまえば困るのはカリンだから、つまりリナの行いのすべてはカリンのためなのに、こんなに抵抗するなんて、まったく信じられない!もちろん、これは呆れや見放しなどではなく、喜びと、一生お世話してあげたいという慈愛だ……
「よしよし」「もうすぐ終わりますわ」「いい子ですわね」とたくさん励まし、なだめて、コップに水を注ぎ、口をゆすがせる。
歯磨き……歯磨かれ?を終えたカリンの足取りはもうへにゃへにゃで、けれどもリナにぴったりとくっついて、小さな両手でナイトガウンをぎゅっと掴み、離すまいとしている。
今夜、カリンを部屋に帰す気なんてなかったのだけれど(リナのお部屋でお楽しみコースのつもりだったので…)、当初の計画が頓挫してもなお、リナはカリンを先ほどまでいた自室に連れ帰った。ひとけのないカリンの部屋はきっと冷えているから、すでに十分温まったリナの部屋で寝かしつけてあげたいのだ。
骨が入っていないかのようにふにゃふにゃになってしまっているカリンをベッドに横たえ、向かい合うように自分も寝床に入る。
すんすん泣いているカリンをなだめるために、細っこい彼女の肩に腕を回して抱き寄せようとすると、カリンもリナの方に寄ってきた。ご機嫌ななめは治ったようだ……
「いやなことをしてしまいましたね、ごめんなさい。でも、カリンちゃんのためなの…わかってくださる…?」
「うん……」
たぶん、カリンは眠ってしまいたいのを起こされたことそのものよりも、それを口実に駄々をこねてリナを困らせたかったのだ。もっと言えば、そんなふうにしてもリナはカリンを見限らないと思えていたということで、でないと気の弱いカリンにあんなことできるはずがない。
それはリナが日頃の接し方でカリンの信頼を得ていたのと、何よりカリンのお願いを叶えてママになってあげたことに起因していて、仕事場でもプライベートでもいっぱいいっぱいのカリンが溜めに溜めたストレスの発露があのささやかなわがままだったのでは……
慣れないわがままを言ってくれたカリンの目尻に滲む涙を拭ってあげて、顔にかかっている髪を優しく払ってやる。と、リナの腕の中で訪れる安眠に身を任せ、すでに半分夢の世界に足を踏み入れているカリンが消え入りそうな声でつぶやいた。
「まま、だっこして…」
そのお願いになんだかたまらなくなってしまって、本当は強くぎゅうっとしたいのに、あくまでソフトに、眠りを妨害しないようにそうっと抱きしめる。
リナの胸に鼻先をすりつけて、カリンはすぐに眠ってしまった。
彼女をおびやかす怖い夢や悪い夢はもちろん、この腕の中で眠る今夜のカリンは楽しい夢や良い夢すら見ないといいのに。カリンにはなんの夢も見ず、ただひたすら安心してぐっすりと眠っていて欲しい。
夢からをも守るようにカリンを胸に抱きしめて、リナは、
(もっと早くこうしていればよかった…)
これまで彼女を独りきりで眠らせていた夜を惜しむ…けれど、落ち込まなくても大丈夫。
時間はたくさんあるのだもの、ふたりはまだまだこれからだ。
百発必中のリナの甘ぁい殺し文句を一撃確殺で射抜き、純な愛のもとにかしずかせる。
過去の誰にも成し得なかったことをできた女の子がいて、それは幼い無垢なカリンがリナに向けたたった一言だった。
♡
こうして、リナとカリンの間には、すてきな秘密のお約束ができた。
カリンが「大好きなリナさん」に甘えたいとき、またはリナが「かわいいカリンちゃん」を甘やかしたいとき、リナは誰にも邪魔されない時間を作って、カリンとふたりきりになれるように仕向ける。
リナの部屋にカリンがお邪魔したり、カリンの部屋をリナが訪ねたり、お茶会や読書会など名目はさまざまだけれど、そこで「ママ」と呼ばれてしまうとリナはもうだめで、ティーカップも本も放り出して、あとはカリンをめいっぱい甘やかすだけになってしまう。
お茶は冷め、物語はどこまで進んでいたかわからなくなってしてしまうのだけれど、ふたりにとっては些事である。どんなに嗜好の一杯や読み継がれる名著でも、カリンちゃんを甘やかす、リナさんに甘やかされる魅力の前ではすべてが色褪せてしまうのだから!